300年室内で一人、追放天使は静かに椅子に腰かけていた。はたして何度目になるだろうか、手の中の手紙に目を落とす。ふと文章を辿っていた目が文字の山の中から人の名前を拾い上げて、指先でその文字列をなぞった。彼の脳裏にありありと名前の持ち主との記憶が蘇る。その人と出会った日の記憶から、時系列順に記憶を丁寧に並べてみる。 今頃はるか遠くの地に眠ったであろうその人に向けて、花を手向けてやれなかった代わりの、彼なりの弔いのやり方だった。 がちゃん。 ノックも無く、部屋の扉が開けられた。炎のように燃え上がる鮮烈な赤の髪と目を持った艶美な女の顔が扉の隙間から現れるなり、追放天使の顔の皺が深くなった。 「…何の用だ、悪魔。」 悪魔は質問には答えずに、ニヤリと怪しい笑みを浮かべて部屋の中へするりと入ってきた。 コツコツとヒールを鳴らして追放天使の前に立つ。 「今日はあんたのとこに行くなって言われたの。」 「…誰に?」 「全員よ、ぜーんいん!だから逆に来てやったのよ。」 ふう、と悪魔がため息をついた。追放天使はというと、今の今まで仲間たちに気を使われていたのだと気づいて、衝撃を受けていた。ツッコミを入れる余裕も無く動揺している追放天使の姿を見て、悪魔は目を細めた。 「どいつもこいつも、あんたのこと心配してるくせに、今は一人にさせてあげなきゃとか言ってるの。意味わかんないわ、人間って。心配なら来ればいいのにね。」 呆れたように肩を下げると、それ以上は粗略な物言いをすることなく、悪魔は口を閉じた。ただじっと目を細めて追放天使の顔を眺めている。その視線が自分の様子を訝しんでいるのだと、ようやく気づいてハッとした。ああ、まずいな。嫌味な笑みを作り出して顔に張り付けた。 「なんだ悪魔、心配して来てくれたのか。」 「まさか!あんたがどんな顔してるのか見に来てやっただけよ。」 「醜悪なやつめ。」 いつもと同じ、嫌味の応酬。相変わらず悪魔は試すような視線をこちらに向けてきているが、いつもどおりにできたはずだ。天使と悪魔という間柄、事あるごとに突っかかってくる相手に弱みなんぞ見せてなるものか。さあ、何でも言って来い、全て受け流してやる。感傷からは目を覚まして、いつもと同じようにどっしりと構えられたはずだった。 白くしなやかな指が、鞭のように飛んできて手紙を奪われた。興味なさげに赤の目が文字を辿る。呆気にとられた追放天使の耳に、悪魔の声がストンと落ちてきた。 「なんだ、こんなことで悲しんでるの?どの人間が死のうが、今更悲しむことないでしょ。」 ヒラヒラと手紙を指先で挟んで弄ばれる。 「記憶が無くても、あんたは天使。数百年生きてるやつが、100年も生きてられないような短命の人間といっしょにいれば、今までだって何百人って先立たれてきたはずでしょ。」 いつもなら「悪魔なんぞの低俗な言葉だ」というスタンスで切り捨てられた嫌味が、今回ばかりはダメだった。追放天使の神経を容易に逆なでさせた。 勢いよく立ち上がった拍子に、椅子が倒れて大きな音を立てた。奪い返した手紙が彼の手の中でくしゃりと言った。 「ああ、そうさ、今更さ。何百人のうちの一人さ。 見慣れてきたはずなんだ。けど、だめだ、悲しいんだよ。」 手紙は皺が寄ってしまった。止める間もなく溢れ出てくる記憶が、追放天使の心を締め上げてくる。 「こいつが生まれた日のこと、こいつの親がどんな顔して喜んでたのか今でも覚えてる。 もっと言えば、その親だった二人の子供時代も、そのまた親も知ってる。 この300年に出会い別れた数百人全員の人生を覚えてるんだ。」 ある日は彼はその人たちの親だった。またある日は彼はその人たちと青春を謳歌する友人だった。別の日には彼はその人たちの子供のように甘やかされた。 けれど、誰もかれも追放天使と同じ時間を歩めなかった。 みんな彼を置いて老いていく。彼に残るのは、記憶だけだった。 ふつうの人間のように、忘れて傷を癒すこともできなかった。 「なぜ、私は、」 人間じゃなかったんだろう。 最後の一言は声に出なかった。ぐるぐると彼の中で300年の孤独が渦を巻く。明かりを完全に見失ってしまったように、彼は顔を上げることが出来なくなっていた。 「覚えてるのが辛いっていうの。天使と悪魔、神が唯一完全に作ってくれた種族の体を恨んでるっていうの?」 追放天使の頬に冷たい指先がふれた。ゆっくりと輪郭をなぞるように、頬から顎先へと滑っていく。 「不完全なせいで記憶を忘れちゃうような下等な生き物が羨ましいっていうの?」 ついに反対側の頬に辿り着くと、手のひらに頬を覆われた。 ぐいと上を向かされる。一瞬だけ表情のない悪魔の顔が見えた。 耳元に寄せられた真っ赤な唇が視界の端にうつっていた。 ぷっくりとした輪郭の表面でルージュが艶やかに煌めいている。 「記憶を消してあげましょうか?」 人の理性をぐらりと揺さぶる、まさしく悪魔の囁きだった。 記憶が、なくなることが本当に幸せなんだろうか。 「必要ない。」 頬に添えられた手を掴んで離れさせた。 「忘れる癖に、忘れたことを非常に後悔するんだ人間は。 大好きな人だったからこそ死を受け止めるのは辛いくせに、覚えていたいと願うんだ。」 「…あっそ。」 興味を無くしたような顔をして、悪魔は追放天使の手を振り払った。 汚いものに触ってしまったとでも言うように手をぬぐいながら背を向けた。 用は済んだと言わんばかりに、さっさと出口へ向かっていく。 そのまま出ていくかと思ったが、扉に手を掛けたところで悪魔がこっちを振り向いた。 彼女の手の中に、さっき奪い返したはずの手紙があった。 「そういえば、返して無かったわね。」と言って、それをひょいと投げてよこした。 手紙はまるで風船のようにふわふわと漂ってこっちへ向かってくる。受け止めようと追放天使が手を伸ばした。 「あんたって、身体は天使でも魂は別物ね。」 おもわず、手紙を受け止め損ねるところだった。ポカンとした表情で追放天使が悪魔を見つめると、悪魔はフンと鼻を鳴らした。今度こそ背を向ける。くしゃくしゃになっていたはずの手紙は、皺ひとつなくピンとしていた。 一瞬迷って、追放天使は「悪魔!」と彼女に呼びかけた。 「ありがとう。」 「…意味わかんない。」 今度こそ扉は閉じられた。彼女は気づいていなかったが、一瞬だけ浮かべた笑みを追放天使にしっかりと見られていた。 追放天使が地上に降り立ったのが400年前(500年前?)の赤き空の日以降。記憶を完全に失ったのが300年前、都市ダメルの抗争で。0から人間として生きなおして、肉体は別でも精神は人間のそれで300年を過ごすのって苦痛だったろうなあ、と。 大切な人にショコラを光奏師にとってはなんら普段と変わらないその日、妙な気配が街全体に溢れているのを感じていた。どこか浮足立ったような人々の様子。風にのって漂ってくる甘ったるい匂い。 何かのお祭りでもあるのだろうか。気になって、一緒に買い出しに来ていたプリンセスへ尋ねてみた。 「光奏師、今日が何日か知ってる?」 目をぱちくりとしばたかせて、彼女は質問に質問を返してきた。まるで自分がよっぽど変なことを言ってるみたいだ。怪訝に思いながら、光奏師は頭の中のカレンダーをめくってみた。 「2月14日ですね。それが何か?」 「えー、ホントに知らないんだ。…よっぽど無縁だったんだね。」 こちとらいちいち人間界の風習なんて知らないんです、という言葉は飲み込んだ。 「2月14日はね、ヴァレンタインデーなの。」 「ヴぁれんたいんでー?」 「そ。女から男へ、好きな人に愛の言葉と一緒にチョコを贈る日なのよ。」 うっとりとした声色でヴァレンタインデーについて説明した後、きゃはー、と奇声を上げたプリンセスに光奏師は冷めた瞳を返した。 「おかしな日ですね。」 するとプリンセスはなぜか同情するような顔をして光奏師の頭を撫でてきた。何か不本意な誤解をされているような気がしたけれど、話し込むのも面倒で手をどかすだけで光奏師は放っておくことにした。 *** 「ただいまー!光奏師、お手伝いありがとね、あとは大丈夫だから。」 ギルドホールへ帰ってくると、顔が隠れてしまうほど腕の中で山を築く荷物を抱えて、プリンセスはさっさと自室へ去って行った。光奏師はというと、すっかり街に広まっていた甘ったるい匂いに鼻がやられた気がして、お茶でも飲んですっきりさせようと台所へ向かうことにした。 「剣士!」 台所へ向かう途中、ちょうど廊下を曲がろうとした時、曲がり角の先から人の声がした。見ると、どうやらアーチャーが剣士を呼び止めたらしく、アーチャーが剣士に走り寄ったところだった。 「ハッピーヴァレンタイン!」 そう明るい笑顔で言って、アーチャーは剣士にリボンの結ばれた手のひらサイズの小袋を差し出した。剣士が嬉しそうな声を上げてそれを受け取った。 ”ヴァレンタインは好きな人に愛の言葉と一緒にチョコを贈る日”。 これは、もしかしなくとも妙な場面に出くわしてしまったのだろうか。剣士とアーチャーがそういう仲だったなんて知らなかった。彼らの間に特別そうな空気は微塵も感じたことはなかったし、仲間たちからもそういうった話は聞いていない。ということは、周囲には隠していたのかもしれない。…それなら、ますますここに居るのはまずい。 さっと踵を返した光奏師の肩に、ポンと誰かの手が置かれた。思わずびくりと小さな肩が波打つ。背後にいるのは、もちろん彼らしかいない。光奏師の予想通り、そこにはアーチャーが立っていた。 「光奏師、ハッピーヴァレンタイン!」 向日葵のような笑みを花開かせて、彼女が光奏師に差し出したのは、先ほど剣士に渡していたのと同じ黄色の袋。反射的に受け取っていた光奏師は手の中の可愛らしいリボンを呆然と見つめた。これは、どういうことだ?だって、ヴァレンタインにチョコを贈るという事は?つまり彼女は自分を恋愛対象に?いや、それは無いだろう。そもそも彼女はさっき剣士にチョコを贈っていたじゃないか。 「あの、なんで僕に?」 困惑の表情を浮かべた光奏師に、アーチャーは小首をかしげた。 「どうしてって?私から光奏師へ、日頃お世話になってる感謝を込めて。ささやかながらチョコを作らせていただきました!」 日頃の感謝を込めて? 「ヴァレンタインは、恋仲の男女がチョコを贈り合うイベントだって、さっき聞いたんですけど。」 「ああ、だからさっき慌ててたのね。」 アハハ、と彼女が軽快に笑った。 「もちろんヴァレンタインの本命は、そういう恋人たちのためのものよ。けど、チョコを贈る理由には他にもあってね、お世話になってる人や親や友人に感謝の意味をこめてチョコを贈るイベントでもあるのよ。」 「じゃあ、さっき剣士に渡してたのは?」 「もちろん光奏師と同じ友チョコよ。」 なんだ、そうだったのか。混乱が解消されて、ふう、と光奏師の口から安どのため息が出た。それじゃあ私は他の仲間を探しに行かなきゃ、と颯爽と彼女が去っていく。涼やかに蜜色の髪を揺らして去っていく彼女の背をしばらく見つめて、思い出したように光奏師は彼女の背に向かって「ありがとうございます!」と大きな声で呼びかけた。彼女は笑みを浮かべて手を振りかえしてくれた。 *** 小さなリボンをほどくと、黄色の包みの中から一切れ大に切られたフォンダンショコラが顔を出した。濃い茶色が艶々と輝いてみえる。生地は見た目と違って柔らかくて、突き刺したフォークはあっさりとチョコを削りとった。口の中に入れた途端、濃厚なチョコの香りがふわりと鼻まで広がった。舌の上でとけたチョコはビターテイストで甘すぎなくて、淹れたての紅茶とよく合う。うっすらと光奏師はほくそ笑んだ。 そういえば彼女は自分で作ったと言っていたっけ。すごいな。この台所で「みんなのために!」と喜々としてチョコを作る彼女の姿が思い浮かぶ。今頃他の仲間たちに、この甘さを届けているのだろうか。 友に、日頃の感謝を込めて、ねえ。 一口紅茶をすすって、光奏師は思案気な顔をした。 *** プリンセスが自分の部屋から戻ってくると、玄関ホールで再び光奏師と出くわした。さっき脱いでいたはずのコートを再び着込んでいるので、また外へ行くようだ。 「どこ行くのー?」 声をかけると、光奏師はバツが悪そうな顔をした。人に見られたくないところを見られてしまった、とでもいうふうに。 「ちょっと買い物に。」 「あら、そうなの。さっきついでに買ってきたらよかったのに。何買いに行くの?」 「・・・チョコを買いに。」 とたんにプリンセスの目に同情の色が浮かんだ。プリンセスは光奏師が実はモテない男なのだということを今日知ってしまっていたのである。 「・・・自分用に?」 かわいそうな子。義理チョコでも買ってあげようかしら。 「まさか。もちろん贈り物用ですよ。」 「え、贈り物?!」 プリンセスが心底驚いた声を上げると、光奏師は視線を外してポリポリと頬を掻いた。恥ずかしがってるこの反応は間違いない。この子は誰かに告白する気だ。プリンセスの心は急に踊りだした。 「僕が贈るのは変ですか?」 ヴァレンタインに男からチョコを贈るのは恥ずかしい事かってこと?いいや、最近街では逆チョコなるものが流行ってるらしいし、ぜんぜん変じゃないですとも! 「心配しなくても、ぜんぜん変じゃないわよ。光奏師から贈られたら誰だって喜ぶわよ。」 光奏師が安心したようにほっとため息をついた。真面目に悩んじゃってまあ、可愛らしい。よし、ここは私が応援しないと。 「おいしいチョコレートがあるお店知ってるから連れて行ってあげるわ!」 プリンセスの心境は、すっかり弟の初恋を応援する姉のそれである。 *** プリンセスが連れてきてくれたお店は、甘ったるいチョコの匂いと何十人もの女の子で溢れかえっていた。 この人気ぶりを見るに、「おいしい」という評判は本当らしい。まるで宝飾品のようにガラスケースの中に陳列されたチョコレートたちをひとつひとつ眺めて、光奏師は仲間たちに贈るのにぴったりのチョコを探していた。となりでひっきりなしにプリンセスが「あれは良さそうじゃない」と勧めてくれるのは、どれも装飾された箱の中に数種類の小さなチョコが敷き詰められたものばかりで、仲間に配るには不適合だ。だからプリンセスのアドバイスは聞き流していた。アーチャーがくれたような手のひらサイズのチョコを探す。そのうち同じようなサイズの箱にひとつずつ入ったトランプのマークを模したチョコたちをみつけた。「あれにします」とプリンセスに伝えると、てっきり彼女が勧めてくるのとは正反対のチョコにしたので不満げな顔をされると思ったが、意外にも「いいんじゃない!」と即答された。 「ハート型・・・ストレートすぎるくらいストレートね。むしろ逆にいいと思うわ!」 イマイチ何を言っているのかは理解できなかったが。とにかく推薦者の了解も得られたので、光奏師はガラスケースの向こう側にいた店員に声をかけた。 「この4種類のチョコ、2つずつください。」 「まって!」 プリンセスが素っ頓狂な声を上げた。まったく、なんですか。 「そんなにたくさんもらっても相手が困るんじゃない?ひとつにしときなさい。」 何を言ってるんですか。仲間の数は僕を抜いて9人じゃないですか。 「大丈夫ですよ、ひとり一個です。」 するとプリンセスの顔はみるみる困惑の色に染まっていった。 「え?!ひとり1個って・・・何人分買う気なの?」 「もちろん9個ですよ。・・・あ、間違えた。」 「だよね?間違えてるよね、多いよね?」 「いえ、1個足りてませんでした。・・・すみません、このダイヤ型もうひとつ追加で。」 「ええええ?!」 あまりにも彼女が騒いで店員さんが困ってしまったので、彼女の口を手で塞いだ。まだもごもごと手のしたで何か騒いでいるけれど、無視して店員さんに「全部で9個でお願いします。」と促した。 *** 心なし上機嫌に見える光奏師の背を、プリンセスは困惑した気持ちで見つめていた。 彼は9個のチョコレートを買った。それも一人に全部あげるためではなく、一人一個ずつだという。つまり、彼は9人の女の子にチョコを渡す気なのだ。 別にプリンセスは恋多きことを悪いことだとは思わない。けれど、”あの”真面目で良い子の光奏師が一度に複数の女子と関係を持つことを不誠実だと感じていないという違和感、またあまり旅以外で街に出かけることのない彼が9人もの少女といつの間に出会っていたのだろう疑問、それらがプリンセスの中でもやもやとしていた。 そして、まさか、という考えが頭をよぎって、プリンセスは口元を両手でふさいだ。 まさか、「下手な弓矢も数撃ちゃ当たる」理論で、それほど仲良くもない知り合い程度の女子にチョコを配ろうとしているのではないか。そこまで恋愛下手だったとは。 光奏師程度の年齢なら、告白してからデートをするというのが当たり前な恋愛のプロセスなのかもしれないけれど。 あまりにもギャンブルすぎる。 やっぱり止めるべきね、とプリンセスが結論を出したのは、ギルドホールに着いた時だった。 なんと言って説得しようか。考え込んだプリンセスの視界に、ずいといきなり何かが現れた。 それは可愛らしい包み紙でラッピングされた小さな箱だった。菓子屋の名が金の字で包み紙の上に模様のように描かれている。さっきの菓子屋で彼が買ったチョコのひとつだと彼女が気づいたとき、彼女の手の中にそれは押し付けられていた。驚愕しながらプリンセスが顔を上げると、光奏師が優しい笑みを浮かべていた。 「これはあなたに。」 なぜ、という疑問が真っ先に浮かんだ。だってこのチョコは光奏師が片思いの9人の女の子にあげるものでしょう?だって、それを私にって。つまり、それは。…えー、そういうことだったの?中性的な顔立ちの彼の微笑みは、絵画の天使のように美しい。急にプリンセスは自分の脈拍が上がったのを感じた。久しく感じていなかった、心がふわふわとむず痒くなるような感覚。プリンセスは例え相手が自分よりも10は小さい年下でも、与えられた好意に同じだけの愛を返せるほど、許容範囲が広かった。けれど、すぐに他にも8人にチョコを配るのだと思いだして、プリンセスの表情は複雑に歪んだ。 *** 室内の暖かさにほうと光奏師は息をついた。さて、仲間にこのチョコを配らないと。まずはこの人に渡そう、と光奏師はプリンセスを振り向いた。プリンセスは彼女にしては珍しく、神妙な顔をして何か考え事をしている。光奏師がチョコの箱を差し出しても、まったく視界に入っていないようだ。思わず眉間に皺のよってしまった自分に気づいてハッとする。いけないいけない、感謝を伝えるのにしかめっ面はよろしくない。アーチャーの向けられた人の心を穏やかにさせる眩しい笑みを思い出す。苦労して光奏師は慣れない笑みを口角に浮かべた。プリンセスの手首を優しく掴んで、その手の中に感謝の印を握らせた。その時になってようやくプリンセスの瞳がこちらをとらえた。 「これはあなたに、」 「いつもありがとう」と言葉を続けようとして、急に恥ずかしくなる。面と向かって改めて伝えるというのは、なんともこそばゆい感覚がする。光奏師は押し黙って、ただはにかむだけだった。 しばらく視線を床や天井に彷徨わせた後、プリンセスの顔を伺い見ると、彼女の顔は真っ赤に染まっていた。顔どころかフワフワとカールする金髪の合間から見える小さな耳も、細い首までも真っ赤だ。 なぜ彼女が恥ずかしがっているのだろう。思い当る節が光奏師にはなくて、黙ってその顔を見ていた。だから光奏師には彼女の表情の変化をしっかりと見れた。呆けたように口と目を開けていた表情から、花が綻ぶようにゆっくりと笑みが浮かぶ。甘い花の香りがどこからかした気がした。初めて見た溶けるような彼女の笑みに、光奏師の心臓がドクリと大きな音を立てた。なぜ自分の脈は早くなったのだろう、と考察を始める前に、また彼女の表情が変化した。花が枯れてくしゃりと潰された。さっきまでの笑みが嘘だったように、細い眉はぎゅっと苦しげに寄せられ、口元も引き結ばれる。いつもの解りやすいプリンセスと違う。光奏師からはまったくプリンセスの内面は見えなくて、ただ混乱した。 「おかえりー!また二人ででかけてたの?」 そこへ風のようにアーチャーが現れた。混乱した頭のまま、そうだ彼女にもチョコをと思いついて、紙袋の中からチョコを取り出してアーチャーへ差し出した。 アーチャーは差し出された箱を見て、次にプリンセスの手の中にも同じ形状の箱が収まってるのを見て、それが何を意味するのか瞬時に理解したようだ。 「まあ、わたしにも?ありがとう光奏師!」 感謝に感謝を返される。悪い気はしない。光奏師は自分が嬉しく思っているのを感じた。 プリンセスの時は言い詰まってしまった感謝の言葉が今度はするりと言える気がした。 けれど、今度も光奏師は言いそびれた。プリンセスが、店で出したような悲鳴を唐突にあげたのだ。 「ええええっ!?なんで?アーチャーにも?」 なんでって。呆けた光奏師に代わって、アーチャーが小首を傾げて疑問を口にした。 「えー。私が光奏師から友チョコもらったらいけない?」 「…………友チョコ?」 プリンセスが何か小さく単語を呟いたようだが、小さすぎて光奏師の耳には届かなかった。そのまま再びプリンセスがフリーズしたが、光奏師は埒が明かないので放っておくことにした。 コホン、と小さく咳払いしてプリンセスとアーチャーの顔を見る。 「いつも二人にはお世話になってます。ありがとうございます。」 「どういたしまして」とアーチャーが、プリンセスはまだ呆然としていた。自分がこんな慎ましいことをするなんて、と驚いているのだろうか。いや、彼女には自分が仲間分のチョコを買っているのだと気づいていたはずだ。買い出しの時にちゃんと言葉では言ってはいなかったが、それ以外に自分にはチョコを買う理由が無いのは明白であるし、9人分のチョコを買っていたのだし、まさか気づいていなかったとは光奏師は思っていない。 「…………なんだ、期待して損しちゃった。」 俯いたプリンセスが再び小声で何か呟いていた。何ですか?と聞き返そうとした光奏師の肩をバシバシと手のひら型に変形したプリンセスの髪が軽快に叩いた。いつものぱあっと派手に輝く笑みを見せて、プリンセスが顔をあげる。 「ありがとうー光奏師!ホント貴方って可愛いわねえ!」 いつものプリンセスだ、と、光奏師は内心ホッとした。おまけのように、ぐりぐりと髪が乱れるほどの力で頭を撫でられる。いつもの弟扱いだ。感謝されてうれしい反面、なぜだか切ない気持ちになった。切ない気持ちの正体も、そんな気持ちになった理由も、光奏師は考えてもわからなかった。 *** 「さあ、みんなに配りに行きましょう!あんたからチョコ貰えるなんて、みんな大喜びに違いないわ!」 プリンセスに腕を引かれて光奏師も走り出す。ふたりの子供はギルドホールの奥へと消えていった。引きずられながらも、こちらに手を振っていた光奏師に向けてニコニコと笑みを浮かべて振返していた手を顎に当て、うーんとアーチャーは唸った。 「…じれったいわね。」 二人の間の微かな空気の変化を、光奏師が聞き逃していたプリンセスの呟きを、アーチャーは気づいていた。しばらく手の中で小箱を転がせつつ、一人悶々としてみた。 そのうちホールの奥から歓声が聞こえてきて、アーチャーはこの問題については考えるのはやめておこうと気持ちを切り換えた。当人たちの問題であるし、自分は関係ない。何より今はせっかくの幸せを味わいたい。小箱から取り出したクローバーのチョコをパクリと口に含んで、アーチャーはその甘さに酔いしれた。
お互い勘違いのプリンセスと光奏師。微かな恋の予感? 天使の設定、恋愛もの?、 |