アジサイの花かおる -前編-ぽつぽつ、ぽつぽつ、 朝から降り続いている雨は、マントのフード越しに相変わらず一定のリズムを刻んでいる。 滴るしずくで顔がこれ以上濡れてしまわないようにフードの先を引っ張り直して、剣士はぐるりと周囲を見回した。 土の香りが漂う森に雨が細く降り注ぐ。靄は無く、薄暗いが視界は良好だ。剣士は前方に人影を見つけてハッとしたが、すぐにそれが見知った顔だと知れて肩の力を抜いた。人影に向かって、大きく手を振る。 「おーい、そっちに居たかー?」 「人っ子一人いませんよー!」 BISが同じように手を振りかえしてくる。大柄なBISの隣にいるせいでシーフの姿はずいぶんと小柄に見えた。ゆっくりと森の奥から向かってくる2人を確認して、剣士はWIZを振り返った。 「調べてない場所は?」 「おかしいな、ぴくっこの生息地はこれで全部なはずだけど。」 雨で地図が濡れてしまわないようにローブの裾で庇いながら、WIZが確認する。 北バへル大河と東バへル大河、ふたつの大河の合流地点の東南側の森の中、WIZが指先で囲んだ場所は確かに今自分たちが探索しつくした場所である。 「もしかして、マニアしか知らない隠しスポットがあるのかも?」 「まじかよ、そんなのおれ達見つけられっこないぞ…。」 WIZと剣士は二人して肩を落とした。 それを見て、今朝から続く長い長い人探しに、光奏師もさすがにくたびれて内心溜息をついた。 周りを見れば、木の下で雨水に打たれてぷるぷると震えているぴくっこたち。 白い皮膚はよく見ると油が浮いた水のような妖しい色の透明な膜でおおわれているようで、それ自体がぷるぷるしている。名前の通りぴくん、ぴくんと時差それが動くさまには、なんだか生理的な気持ち悪さを抱いてしまう。 「探し人はあれが好きでこんなところに何週間も居るらしいですが、僕には理解しかねます。」 「まったく同感だな。」 おえ、と顔を曇らせ光奏師の呟きに、剣士は深々と頷いた。 そうこうしているうちに、いつの間にか合流していたBISとシーフも話に加わってきた。シーフが退屈そうに伸びをしてあくびを一つした。 「魅力的なモンスターもいない、探索できる場所でもない。こんなとこ早く帰りたいね。」 「それにも同感!早く剣を振り回したいぜ。」 「乱暴な話ですが…確かにボクも今日はなんだか暴れ足りない気分です。」 「こらこら、人助けも冒険家の務めですよ。」 BISがシーフの肩にポンと手を置いて嗜めると、シーフはやれやれという風に肩をすくめてみせた。 「あんたも退屈そうだったじゃないか」という意味を込めて。 「さて、これからどうする?」 「もう一度ぴくっこの生息地を探索してみようか?」 「いや、それより少し違う場所を探した方がいいんじゃないですか?」 そんな中、剣士が自分の腹を撫でながら一言。 「とりあえず、今日はもう晩飯にしないか。」 「もう日が落ちるころでしょうしね」と、BISが同意したことでパーティの意見はあっという間に一致した。 「じゃあ、あっちのパーティと合流しないとね。」 すっかり地図係になったWIZが再び地図を確認し始めた。しばらくしてコンパスを頼りに一行は歩き出した。 ふたつの大河が合流する場所へ。 ばちばち、ばちばち、 ピンと張られた布の上で、雨粒が飛び跳ねている。 「霊術師、そっちは大丈夫?」 「ええ。」 「よし。そーれー!」 ざざざざーっ。アーチャーと霊術師がゆっくりと布の両端を地面近くに下ろし、裏側からたぷたぷと揺れる膨らみを拳で叩くと、簡易テントの天幕に溜まっていた大量の水が滝のように音を立てて勢いよく落ちていった。 「こっちだと雨が溜まってテントが潰れちゃうから、あっちの木に張りなおしましょう。そっちの端をあの木に固定してくれない?」 「了解。」 「…えー、移動するのぅ?」 テントの真ん中で長い脚を抱えて宙に浮いていた悪魔が、膝から顔を上げた。いつもは角のように立っていた頭頂の二房の髪は、今日は湿気に負けたようにぺたんとしている。 「めんどくさがらないで、あなたも手伝ってよ。」 「やーよ、濡れちゃうじゃない…。」 再びしゅんと項垂れた悪魔に、アーチャーと霊術師は顔を見合わせた。面倒事にはわれ関せずな態度はいつものことだが、こんなにしょんぼりした悪魔は初めて見た。膝の隙間から、悪魔の蚊の鳴くような声が聞こえてくる。 「水ってなんだか苦手だわ。地下界はこんなにじめじめしてないわよ。あー、もう…天からの嫌がらせに違いない。」 地面にずっと浮いているのも大変だろうに、よっぽど水たまりにもぬかるんだ地面にも触れたくは無いらしい。「あらまあ、意外な弱点が」とアーチャーは目を丸くした。 「そんなに嫌ならネクロに代わってもらったらいいんじゃない?」 「そーしたいわよ。けど、あの子ったら、今日の移動で疲れたみたいで爆睡中なのよ。もう、信じられない!」 怒った拍子に足を伸ばして、あやうく水たまりに足を突っ込みそうになり、慌てて悪魔は足を引っ込めた。 いつも飄々とした悪魔からは考えられない、水の嫌いな猫のような彼女の様子が可愛らしくて、アーチャーはクスリと小さく笑った。不満げな色を湛えた赤の瞳がじとりと膝の向こうからこちらをねめつけてくる。その目が、すい、と川の方に向けられた。 「ネクロも信じられないけど、あの子たちももっと信じられないわ。なんであんなにはしゃげるのかしら。」 霊術師は木の枝に布の先をロープで縛りつける手を止めて、悪魔の視線を辿ってみた。 ぽつぽつ、 ざーざー、 流れの早い土色に濁った大河の側で、楽しそうな少女たちの声がする。 かわいらしいレースのあしらわれたカサを回しながらリトルウィッチは歌を歌っているようだ。 雨と川の音でここからは聞こえないが、伸びやかに彼女の唇が音を紡いでいるのは見えた。 彼女はレースの裾が汚れないように気を付けながら、うまく水たまりを避けていく。 彼女の周りを星たちが煌きながら踊っていた。 リトルウィッチの前を、サマナーが呼び出した水の召喚獣スェルファーと一緒に跳ね回っている。 せっかくリトルウィッチから借りた上品なカサをささずに、クルクルとバトンのように回し、 頭からびしょ濡れになりながら、何が楽しいのかうれしいのか笑い声は絶えない。 水たまりにわざわざ飛び込んで水しぶきをばしゃばしゃ上がらせたり、 河の近くの石の上を飛び跳ねたり飛び移ったり、見ている者をハラハラさせる。 あれは、何をしてるんだろう。 あまりの彼女たちのはしゃぎっぷりに、霊術師は呆気にとられた。戸惑いの目をアーチャーの方に向けると、霊術師の反応を予想していたようで「ああ、あれはね」とアーチャーがすぐに説明してくれた。 「リトルウィッチは雨の音とリズムが好きならしくてね、ぴったりな曲をああやって歌いながらよく考えてるの。サマナーはロマの民だから、水の召喚獣を通して自然と一体化して喜んでるみたい。」 「…そうなんだ。」 「へーんなのー。…あー、早くちゃんとした屋根のあるところに帰りたい。」 ううう、と悪魔がうめき声をあげた。 「ほら、悪魔。濡れたくないならテントと一緒に動いて。ついでにそこの荷物もってちょうだい。じゃあ、霊術師動かすよー。せーのっ!」 ぽつぽつ、 簡易テントの設置が終わった頃、男たちが戻ってきた。BISがさっそく腕まくりをする。 「それじゃあ、晩御飯の準備しますね。」 空腹を抱えたメンバーの目がキラリと輝く。メンバーがそれぞれ、薪の準備や調理台の準備をはじめようとしたとき、思案げに川の方を眺めていたWIZが「ちょっと待った」と手を上げた。 「ここだと少し川に近すぎるかもしれない。雨はだいぶ止んできているけど、朝から降っていたから川の水位が心配だよ。」 「確かに。念の為に移動したほうがいいかしら?」 「…また移動ぅ?」 うっ、と悪魔が表情を曇らせる。 「ごめんね、悪魔、ちょっとだけ付き合ってね。やっぱり野営は安全確保が第一だからね。」 「それじゃあ、すぐにでも移動しよう。俺腹ペコでさー。」 「そうしたいんだけど…、サマナーとリトルウィッチはどこだい?」 「さっきまで川沿いに散歩してたんだけど…。上流の方に行っちゃったのかしら?私、探してくるね。」 「ありがとう。頼むよ、アーチャー。」 「あら」とテントの入口に立ったアーチャーが声を上げた。 「二人ともちょうど帰ってきたみたいよ。」 ケルビーにまたがってサマナーとウサギに変身したリトルウィッチがテントの中に飛び込んできた。 「ねえ、みんなあっちに移動しない?すっごく綺麗なとこ見つけちゃった!」 5年位前の書きかけの文章を発見したので再利用。ホントにオチ無しで終わりそう。 2013/07/08
アジサイの花かおる -後編-朝一に、銀行へ訪れたのが始まりだった。手続きの書類に署名をしていると、とんとん、としなやかな指先が机を叩いた。カウンターに座した彼女がそっと顔を近づけてきて「ひとつお仕事お願いできませんか。」と尋ねてきた。 「ぴくっこってご存知ですか?バヘル大河の合流地点の森に生息してるワーム類のモンスターなんですけど。 ここの頭取の旦那様、元頭取なんですけど、そのぴくっこが大好きで、頭取の座を辞してからは月に何回か生息地にまで見に行ってるんです。いつも一週間くらいで戻ってくるのですが、今回は二週間経っても帰ってなくてですね。 冒険者様ほどではありませんが剣の腕もありますし、あそこは山奥の洞窟にさえ近づかなければ凶暴なモンスターも居ない地域ですし、大丈夫だとは思うんですけど…。頭取は心配で仕方ないみたいで、毎日落ち着かない様子なんです。私たち気の毒で仕方なくって。だからちょっと、探してきていただけませんか?報酬は、探索に参加してくれたお仲間全員の口座を一段分の拡張、でどうでしょうか?」 ただでさえ常に満杯な銀行口座である、こんな美味しい話にのらないわけがなかった。 ぽつぽつ、 大河の流れを横目に上流のほうへずっと歩いていくと、しばらくして小さな支流に行き当たった。 川幅はちょっと助走をつければ飛び越えられそうなほどに狭く、元から水位が低いようで流れはとても穏やかだった。 荒れる大河にちょろちょろと注いでいる小川に沿って森の中を進んでいく。 その先に、色とりどりの花たちが姿を現した。地面から1mほどの高さにまで生い茂った葉の上に、両手に納まりきらないほど大きな丸い花が咲いている。よく見てみると、四つの花弁をもつ小さな花がより集まって、ひとつの丸い花のようになっているようだ。紫や、青、ピンクと鮮やかな色彩が余りにも鮮やかで、緑と灰色の森の中ではぼんやりと浮いているように見えた。 「これは…あじさいの花、ですかね。」 「花屋で何度か見た事あったけど、こんな風に群生して咲くんだ。…すっごくきれー。」 「いいところだね。よし、今日のキャンプ地はここにしよう。」 「早くテント立てよーぜ!腹がもう限界なんだ!」 「あたしももう限界…、ネクロに変わってもらうわ。」 ぽつぽつ、 雨のにおいに混じっておいしそうな香りがテントの中に漂っている。 剣士はぐーぐーと唸り声を上げる己の腹をなだめなだら、花に囲まれてはしゃいでいる少女たちを眺めていた。 リトルウィッチとサマナー、そしてネクロマンサーの三人は、あじさいの花たちをひとつひとつ興味深そうに観察して回っている。涼やかに小雨が木々の葉で音を立てる中、無邪気に花を愛でる少女たちという構図はなかなか風流がある。ここに詩人がいれば10も20も歌が出来そうだなあ、と剣士は空想に耽った。 「剣士、タオル。」 「おう、ありがとさん。」 シーフからタオルを受け取って、がしがしと剣士は濡れた頭をぬぐった。 隣でシーフも顔を拭っている。テントの奥の方では、BISとアーチャーと霊術師が雑談しながら調理をしている。WIZと光奏師はそろって読書を静かに楽しんでいた。シーフがふあ、と大きな欠伸をした。 「今日はあくびがよく出るな。」 「もう10回目くらいかもな。眠くなるくらい穏やか過ぎる日だ。」 「けど、悪い気はしないって、思わねえ?」 「…まあな。たまにはいいんじゃないかな、こんな日も。」 剣士はシーフの返答に満足げにニヤリと笑みを浮かべた。 雨音、調理の音、話し声、ページがめくられる音、笑い声。テントの中に溢れる音に耳を傾け、あじさいの花の色彩を楽しみ、時差言葉を交わしながら、二人は夕食ができるまでの時間をぼんやりと過ごしていた。 ぽつぽつ、 「ん?」 唐突に、小さな疑問の声を上げて、シーフが背後を振り返った。シーフの視線はテントの中にいるBISたちを通り越し、鬱蒼と生い茂った森の方へと向けられている。剣士には灰色に霞んだ緑が目に入るばかりだが、気配に鋭く、目が普通の人より遥かにすぐれたシーフには別のものが見えているのかもしれない。 「どうした?」 「こっちに何か向かってくる気配がする。」 シーフが意識を集中させるように、目を閉じた。 「数は…1人、人間だ。」 「それってもしかして?」 「ああ、もしかするかもしれない。」 木の枝へ引っ掛けておいたマントを掴み、二人は森の中へ駆け込んだ。 アジサイの花々を掻き分けて奥へ奥へと進んだ先で、木々の合間から突然現れた剣士とシーフに、中年の男が驚いた顔をした。レイピアを帯刀した、小太りの中年男性。背には黄色のカバン。黒の大きな傘。水色の瞳。マントのフードの隙間からわずかに見えた頭は額の面積が広く、ひよこの羽毛のような薄い白の毛髪で覆われていた。聞いていた容姿とピッタリだ。 剣士が若干興奮気味に、中年男へと問うた。 「あんた、もしかしてブルンネンシュティグ銀行の元頭取のシンクさん?」 「いかにもそうじゃが…、お主らなぜワシのことを?」 中年男――シンクは、ますます驚いた様子で目をパチクリさせた。 **** 「いやあ、こんなところで人と会うとは珍しいと思ったら、まさかワシを探しておられたとは。 まったく我が娘は心配性でいけない。まさか、自分の役職を私的に利用して冒険者様方にお願いするとは。いや、冒険者様方には大変ご迷惑お掛けいたしましたな。」 「いえ、シンク殿がご無事なようで何よりです。窓口のクレナさんがシンク殿の娘さんだとは驚きましたが。 冒険者に依頼するほど、お父上のことを大切に思っているという事なのでしょう。」 「はは、愛されているとは辛いものがありますなあ。」 朗らかに笑うシンクにBISがニコニコと愛想笑いを返した。そこへ、うずうずとした様子でWIZが話に乗り込んできた。 「シンクさんはぴくっこが好きでここに来ていたと聞いて、僕らは東のびくっこの生息地域を散策していたのですが。なぜ、この西側にいらっしゃってたのですか?」 「そうですか、それは無駄な労力を使わせたみたいで、ますます申し訳ないですな…。実は今回はワシはぴくっこが目当てで来たのではないのですよ。これが目当てでしてね。」 「これ」と、シンクはカバンからスケッチブックを取り出して渡してきた。WIZが表紙をめくってみると、両隣で覗き込んでいたサマナーとリトルウィッチが「わあ」と歓声をあげた。 「すごく絵がお上手ですね!このアジサイの花、本物みたい!」 色鉛筆で繊細にスケッチされたアジサイの花たち。何十枚ものページにわたって、鮮やかなアジサイの花が咲き誇る風景が描かれている。 「ありがとう。アジサイの花をスケッチしに来てみたら、思いのほかいい場所がたくさんありましてな。全て描いてみたら、こんなに時間がかかってしまいましたわ。」 二人の少女に促されるままパラパラとめくっていくと、スケッチブックの最後の一枚前のページまですべて書き込まれていた。 最後のページだけは、ページ全体が薄い筆圧で黒色に塗りつぶされていた。このページは練習用だったのだろうか。少し疑問に思いつつ、WIZはスケッチブックを閉じてシンクに返した。リトルウィッチがシンクの言葉にうんうん、と相槌を打っている。 「たくさん絵に収めたくなる気持ち、わかりますわ。アジサイの花ったら普通の花とは違う、雨が似合う不思議な鮮やかさがあって、とっても素敵なんですもの。」 「そうでしょうそうでしょう?なんといってもこの色!このみずみずしい色彩には、ぴくっこの七色に輝くあの皮膚の美しさに通じるものがあって、すっかり私も魅了されてしまいましてな。」 「ぴくっこの美しさ…?」 リトルウィッチの顔が強烈に顰められたのを背に隠すようにWIZは一歩前に出た。 「用はもう済んでるようですし、僕らと一緒に帰りませんか?」 「私の追放天使の能力で街へ帰れるポータルを開けられるので、苦労なく今すぐに家へ帰れますよ。」 「ありがたい話ですが…実はまだもう一枚書き残した絵があるんですよ。あともう一晩だけ、時間が必要なんです。」 スケッチブックは全て埋まっていたように見えたけれど。疑問を飲み込んで、WIZは「わかりました」と頷いた。 「それじゃあ、その絵が完成したら帰りましょう。探し人を置いて僕らだけ依頼人のところへ報酬を受け取りに行くわけにはいきませんし、僕らも今夜ここへ泊りましょう。」 話がまとまったのを見計らって、剣士が「よし飯にしよう!」と声を上げた。 ぽつ、ぽつ―――― 和気あいあいと食事をとっていると、シンクが空を見上げてぽつりと呟いた。 「よかった、雨が止んだみたいだ。」 雨音の無くなった夕暮れ時の薄暗い森は、澄んだ空気の中しんと静まり返っていた。 ゆっくりと、森が夜の色に染まっていく。食事を終えた様子なのに、シンクはそれを眺めるばかりで絵を描きに行く様子はまったくない。シンクの隣でずっとシンクの話相手になっていたサマナーが不思議そうに首を傾げた。 「シンクさん、シンクさん。はやく描きに行かないと、真っ暗になっちゃうよ?」 「いいんだよ。夜にならないと、ワシの描きたいものはこないんじゃよ。」 「あじさいの花じゃないの?」 「違うよ」と、返したシンクはいたずらっ子のような何か楽しい企みを匂わせる笑みを浮かべた。 森の中に目をやると、さっきまで森中に散らばってくるくると飛び跳ねていた水の精霊たちが、小川の周りに集まっていた。くすくすと笑い声を立てながら、木の枝やアジサイの花弁の上に座って、彼らも何かを待っているようだった。 貴方たちは何を待ってるの?スゥエルファー越しに声を掛けると、サマナーにしか聞こえない声で彼らが話しかけてきた。 ―――もうすぐ始まるよ。命の灯を燃やす、情熱的な愛の宴が。 それはなあに?と、聞き返したサマナーに、水の精霊たちは笑い声を立てるだけだった。 夜が森もアジサイの花も空も飲み込んでいった。そのとき、ふと視界の端をを何か輝くものが通った気がしてサマナーは振り向いた。焚火の明かりでオレンジ色に照らされた木々があるばかりで何もない。けれど、シンクが「来たようじゃな」と呟いて立ち上がった。 「すまないが、焚火の火をで消してもらえないか。」 火が消えると、とたんにテントの周辺も真っ暗になった。明かりに慣れた目では、しばらくの間何も見えない。暗闇に目を慣らさせようと、ぱちぱちと瞬きを繰り返す冒険者たちの目に、緑の仄かな明かりが飛び込んできた。 夜空の星のような、小さな点の明かりが森の、とくに小川の周囲に現れた。ゆっくりと数秒間隔で緑の明かりを明滅させているそれらのいくつかは、明かりの尾を引きながら宙を舞っている。次から次へと緑の灯りは増えていった。 「わああなにこれ!きれい!」 「これは、精霊、ですか?」 「ううん、違うよ。精霊じゃない、普通の生き物みたい。」 冒険者たちは、スケッチブックを手にしたシンクの後に続いて小川の周囲に集まった。 彼らの周囲を緑の灯がすいっといくつも通り過ぎていく。すぐ傍らを通り過ぎていくそれに気づいて、霊術師が手を伸ばすと、それはやすやすと彼女の手の中に納まった。そっと閉じ込めた指先をずらしていくと、思いのほか強い緑の輝きが彼女の手の中で明滅を繰り返していた。覗き込んでいた数人の歓声が上がる。 「この不思議な生き物はなあに、シンクさん。」 「これはな、蛍じゃよ。虫の一種さ。」 「…虫?!」 驚いた霊術師がパッと両手を開放すると、解放された蛍はすいっと空へと飛びあがり、やがて小川の方の緑の灯りたちの中に紛れていった。それを見たシンクがスケッチブックにスッと鉛筆を走らせた。書き込んでいるページは、あの真っ黒に塗りつぶされた最後のページのようだ。シンクの握る鉛筆が何色なのか、暗闇の中でもそれはわかった。 あるものは追いかけ、あるものはぼんやりと蛍の描く軌跡を眺める。思い思いに冒険者たちは蛍を楽しんだ。 「こんな美しい虫がいたなんて。僕たちも長く冒険してきたつもりでしたが、初めて見ましたよ。」 「そうでしょう。モンスターが弱く、水がきれいなところには、意外とこやつらはどこにでもいるんですがね。 誰もこんなところには来ないから、知られてないのも無理はない。」 ふむ、と満足げな声を上げて、シンクは鉛筆を走らせるのをやめた。ふらふらと一匹の蛍がスケッチブックの端にとまった。数秒だけ照らされたスケッチブックには、今眺めている景色と同じ、幻想的なそれが描かれていた。蛍がまたどこかへ飛んでいく。 「冒険家方には近場で面白みのない地域でしょうが、こんなところにも人の知らない宝があるのですよ。 ワシも元銀行員としていろんな物を見てきました。 この世界には苦労してじゃないと手に入らない綺麗な物や摩訶不思議なものがあまりに多すぎて、 こんな風に簡単に手に入る美しいものは注目されないんですよ。まったくそんなのもったいないと思いませんか。」 「そのために絵を?」 「まあ、そんな所です。ただの自己満足に過ぎませんがね。」 「いえ、素敵なことだと思いますよ。」 WIZの頷きに、シンクは照れたように頬を掻いた。 冒険者たちはまたひとつ、輝かしい宝物を手に入れた。 きれいな景色の中をゆったり散歩させてみたい。 2013/07/13 6月、梅雨の到来 |